店長・菅田 -Works-



里葉風流の競盤風物詩


第6話 ビートルズを訪ねてイギリスに渡った初めての日本人(2000.1)


小学校6年生の時、スリー・ファンキーズの「抱きしめたい」が好きでした。“オー・プリーズ オー・イエエエ お前を抱きしめた〜い わ〜か〜る この気持ち アオナ・ホージュー・ヘー”と学校の帰りに歌っていました。ちょうどその頃、テレビのニュース番組で、“髪の長い四人組のバンドが、イギリスで話題になっている”映像を見たのをはっきり覚えていますが、それが本物の曲を歌っているバンドであると理解するのはずっと後のことでした。私と同い年でリバプール・サウンド・コレクターのOさんという人がいます。彼は早熟でした。同じ頃ラジオで流れた本物の「抱きしめたい」を聴いて感動し、すぐにレコード店に走り「ビートルズの「抱きしめたい」を下さい」と頼んだところ、女店員に「たぶん、このレコードのことでしょう」と1枚のドーナツ盤を渡されました。
ジャケットを見て「あんまり外人らしくないなあ」と思ったのですが、言われるまま素直に買って帰り家でプレーヤーに針を落とすと、“お前〜を 抱きしめ〜た〜い〜”と日本語の歌が聞こえて来ました。東京ビートルズの「抱きしめたい」<SPV−8>だったのです。O少年は、本物に交換してもらうべく女店員に交渉したのですが、「一度お買い上げのレコードは、交換しかねます」と断られ、頭に来て田んぼに投げ捨てたのでした(惜しい!オークションすれば3万円では売れるのに。どこの田んぼだろう?35年も前じゃ無理だろうなあ・・・)。

ダークダックスが歌ってもこんなんだろうなあ。
本物と同じように歌っているのにタイムが20秒も短い。いかにスピード感があったか!



悲劇はまだ続きます。5年前、女性週刊誌のお宝特集に載った当店の記事を見て、初老の婦人から電話がありました。「これは本当に珍しいと思うのですけれど、ビートルズが歌っているソノシートはいくらで買ってもらえますでしょうか?」貴婦人とみた。「ビートルズが歌っているソノシートって見たことないですねえ。本当にビートルズが歌ってるんですか?」「さようです。表の写真も四人がはっきり写っておりますし、中を見てもビートルズの写真ばかりでございますよ。」「本当にビートルズが歌ってたら凄いですよ、それは。」「でございましょう?」確か映画のワンシーンでの四人の話し声が入ったソノシートは知っていますが、歌っているなんて聞いたことがありません。信じられない。
アメリカのビートルズ・ブームに便乗するような形で、60年代中頃の日本では、ジャケットの写真やアーティストの表記にはビートルズを使い実際の歌や演奏は日本人がしているという、詐欺まがいのソノシートが大手を振っていたのです。嫌な予感が走りました。「ちょっと裏表紙をめくってみて下さい。そこに“演奏者のプロフィール”とか書いてありませんか?」「待ってくださいよ。えーと、・・・。ああ、ございました」「・・・。何て書いてあります?」「ハ、ハニーナイツ…」「でしょう?曲は聞かれなかったんですか」「ええ、ビートルズは価値が出るような気がしたものですから、一度も針を落としておりませんでしたの。30年近く、大事にタンスにしまっておきましたのに・・・」せっかくの“先見の明”も台無しです。せめて東京ビートルズだったらよかったのに。

ビートルズの4人の話し声が入ったソノシート
ごらんの通りジャケットにはアーティスト名が書いてありません。ビートルズの歌う「ダイナマイト」、聴いてみたい。クレイジー・ビートルズの「涙の乗車券」で演奏される間奏のトリッキーなギター・ソロあなたにも聞かせてあげたい。



今現在のビートルズ・ファンで、東京ビートルズの「抱きしめたい」を笑わずして聴くことの出来る人は、まずいないでしょう。しかしながら、1964年当時の日本では、これがプロのレコードとして正規に発売されていたのです。しかも大手ビクターから。さらに、「プリーズ・プリーズ・ミー」は3回録音し直していますが、「抱きしめたい」はあんな出来にも拘らず1回でOKが出ているのです(「プリーズ・プリーズ・ミー」の1回目の録音が聴いてみたい)。スリー・ファンキーズの「抱きしめたい」だって、今では十分(10分と読んでもいい)笑い続けられます。これも大手東芝からの発売です。なかなかいいポップスだと思って、35年前の私は歌っていたのです。
Oさんだって、今だったら女店員のジョークだと思って、そのセンスに感心してしまうでしょう。日本はまだそういうレベルだったのです。35年前の日本の若者に与えた本物のビートルズのインパクトが、どれだけ凄いものだったかお解りでしょう。そんなインパクトとは無縁であるかのように、私の個人史的な宝であるビートルズの「抱きしめたい」<OR−1041>のセカンド・ジャケには2800円の中古価格が付けられ、東京ビートルズの「キャント・バイ・ミー・ラブ」<SPV−13>には10万円のWANTが来るのです。

単なるカバーを超えてオリジナリティ確立!
このオデオン・サード・ジャケはレア。



私がスリー・ファンキーズのカバーを歌い、Oさんが東京ビートルズのレコードを田んぼに投げ捨てた1964年、一人の高校生が、ビートルズに会うために日本を旅立ちました。ハワイに行くのだって命がけだった時代です。17才のT少年が、従兄と二人でシベリア鉄道に乗ってイギリスに辿り着くまで、3ヶ月を要しました。アポロンの神は、この無謀な少年の英断に拍手を送ってやりました。1964年10月ロンドンに着いたT少年は、すぐにビートルズのファンクラブを訪ねました。事務局長は、はるばる日本からやって来た少年の差し出したノート(自分がいかにビートルズのファンであり何のためにヨーロッパに来たのかがびっしり書かれてありました)にじっと目をやり、「わかった。ちょうどビートルズの公開録画があるので、そこに連れてってあげる」と答えてくれたのです。
凄い偶然でした。10月3日、ロンドンのグランビル・スタジオで人気テレビ番組「シンディグ」収録用のライヴが行われ、T少年と従兄は、招待された150人足らずの聴衆の中に紛れ込むことが出来たのです。しかも、英国公認ファンクラブの日本人会員第1号となったT少年は、コンサート収録後、事務局長にステージに連れて行かれ、ビートルズに紹介されたのです!。さらにポールにも話しかけられ(語学力の乏しかったT少年には内容が理解出来なかった)、全員と握手まで交わすことが出来たのです。これは、“ビートルズに初めて会った日本人記者”として公認されている、当時の『ミュージック・ライフ』編集長星加ルミ子氏の単独会見が行われた1965年6月15日より、実に8ヶ月も前のことでした。

星加ルミ子氏のビートルズ会見を特集した「ミュージック・ライフ」1965年8月号



「日本には天才女性歌手が二人いて、一人は美空ひばり、そしてもう一人が弘田三枝子である」というのが私の持論です。この異端論に賛同していただいているのが、盛岡在住の直木賞作家“T少年”こと高橋克彦さんです。高橋さんとは、「ヒット・キット・ミコ」という東京の友人が作っているホームページをきっかけに交流が始まり、今では盛岡でのレコード・コンサート等にお手伝いで参加させていただく仲までになっています。高橋さんはその昔、デビュー当時のミコちゃん(弘田三枝子の愛称)のファンクラブ岩手支部長をしていて、1964年の従兄とのヨーロッパ・ヒッチハイク中も各地でレコード・コンサートをすべく、ミコちゃんのシングル盤を全部持って行き、民家に泊めてもらってはそこの住人にも聴かせていたというのですから、その心酔振りは筋金入りです。
ビートルズとの遭遇記は、雑誌『ノーサイド』(95年11月号)や『だからミステリーは面白い』(有学書林)・『日本史鑑定』(徳間書店)・『漣健児 カバーポップスの時代』(シンコー・ミュージック)などにも書かれていますが、ビートルズ・フリークにほとんど知られていないのは、映像・写真等の確証すべきデータがまったく存在していないからでしょう。たくさんのビートルズ・フリークにアクセスされているであろうこのホームページに発表することは、1960年代前半のいわゆるブルース・シンガーの再発見ブームで、1930年代に活躍してその後忘れ去られていたスリーピー・ジョン・エスティスを極貧状態から救い出し再録音させた、デルマーク・レコードのボブ・ケスターのような心境なのです(ちょっと、たとえが悪い?)。



「ビートルズに初めて会った日本人」は誰か、という疑問に断定的な答えを出すのは難しいかもしれません。活字で残されているものでは、『ミュージック・ライフ』の1964年6月号にユナイト映画の水野和夫という人(水野晴郎氏のこと?)の「私はビートルズに会ってきた」という体験記があります。64年4月21日にロンドンで開かれた映画「ア・ハード・デイズ・ナイト」の完成記念レセプションに出席し、日本人としてビートルズに質問してきたことが書かれていますが、その時ビートルズと一緒に写った写真は残されていないようです。
その昔FM東京の「きまぐれ飛行船」という番組で、作家の片岡義男氏が「デビュー前のビートルズのライヴを、赴任先のハンブルグで毎晩のように見ていた商社マンの友人がいる」と話していたのを聞いたことがありますが(この人、ビートルズ・ファンからすれば人間国宝級ですよね)、これとて“未確認情報”でかたづけられてしまいます。ビートルズ専門誌『ノーウエア』の「ビートルズと日本」特集号に、「ビートルズを初めて聞いた日本人」として、63年当時ロンドンに留学していた高橋康也(のちの東大教授)という人が挙げられていますが、これって“言ったもん勝ち”ですよね?

私自身ビートルズにとつかれて35年にもなりますが、この本で初めて”T少年のビートルズ遭遇”を知りました。ほんの1年前のことです。



昨年末、高橋さん主催の岩手で開かれたチャリティー・イヴェントにミコちゃんも出席するということを聞き、無理やり青森のレコード買取りをブッキングさせて参加しました。高橋さん本人やテレビ局・出版社の人達を交えての打ち上げの席で、高橋少年のビートルズ遭遇が話題になり、「“17才の高橋克彦が64年のビートルズを見ている映像を探し出す旅”をテレビ番組にすれば盛り上がるよ」という話が出て来ました。「エド・サリバンショー」と並ぶ1960年代アメリカの二大ポップス番組の一つである「シンディグ」は多くの映像が残されており、64年10月3日のビートルズの演奏シーンも、ビデオ『アンソロジー4』に「カンサス・シティー」が収録されています。
この映像、17才の日本人が、ほんの7〜8メートル前で見ていることを想像するだけで物凄く興奮しますよ(あなたもやってみて下さい)。1964年といえば、アメリカでビートルズ旋風が吹き荒れ全米シングル・チャートの1位から5位を独占したり、初の主演映画が公開されたりと、正にビートルズが世界にはばたいた最もセンセーショナルな年でもあったと言えるでしょう。当時の高橋少年の興奮も容易に想像出来るというものです



先日、電話で「シンディグ」観戦の様子を詳しく聞いてみました。「どんな曲をやりましたか?」の質問に、当時の日記を取り出して読んでいただきました。“ポールの横でジョンはハーモニカを肩にかけて歌ってる”などと演奏シーンの描写はやたら多いのですが、肝心な曲名があまり書かれていないのです。「知らない曲が多かった」という高橋さんの言葉で謎が解けました。要するに、高橋さんが日本を出発した64年の7月の時点では、日本では『セカンド・アルバム』が発売されたばかりで、「カンサス・シティ」や「アイム・ア・ルーザー」も高橋さんには耳覚えがなかったのです。
その分「ボーイズ」は、かなり興奮されたようです。アメリカABC放送のイギリスへの凱旋興行だったため、相当カメラが客席に向けても回っていたようで、どこかに映像や写真が残っているはずだと高橋さんは言われています。ブートのビデオも含めこの日の映像はいろいろ出回っているようですが、残念ながら2階席の左側の方にいる日本人の姿(赤いヤッケを着て、日の丸を胸につけていたそうです)は現時点では確認されておらず、当時のファンクラブの雑誌でもその写真は残されていません。



66年6月、今度はビートルズが日本にやって来ました。真摯にビートルズの音楽性に惚れ込んでいた当時の日本の若者にとって、忘れられない曲があります。来日公演のテレビ放送の中でのこと、ビートルズが羽田空港からホテルに向かう途中の高速道路を車で走るシーンで、パトカーのサイレンの音を突き破るかのように耳に飛び込んで来た「ミスター・ムーンライト」です。あのジョンの絶叫を聞いた時の感動は、リアル・タイムでかたずを飲んでテレビに見入っていたファンにしか分からないものかもしれません。地方にいてコンサートに行けず、それまでほとんどレコードぐらいでしか知識が得られなかったファンにとっては、実に神々しく聞こえました。その後始まったライヴそのものより、ある意味で瞬間インパクトは大きかったと言えます。高橋さんも、「ミスター・ムーンライト」の感動を同じように当時岩手で味わられたようですが、それとは別に複雑な想いもあったのは確かでしょう。日本中がビートルズ来日で大騒ぎしている状況を見ながら、2年前に150人のファンの中に入って目の前で“生の”ビートルズを見て握手までしてもらった自分が、取材を受けるでもなく、普通の19才の学生のままテレビに見入っている。
「どっかで冷めてた」のも分かります。「はっぴを着てタラップを降りて来たとき、日本に迎合しているような気がして嫌だった」のも納得出来ます。そんな希有な体験を持つ高橋さんから、ビートルズが日本を去ってすぐ後に発売された『ビートルズ物語』<OP−7553〜4>のLPをいただきました(ご安心下さいコレクターの皆様、帯なしです)。替わりに、ミコちゃんの『ヒット・キット・パレード Vol.2』<JPO−1197>のサイン入り10インチ盤をプレゼントしました(日本における弘田三枝子サイン鑑定の第一人者高橋克彦氏によると、これは60年代の中後期のものらしい)。高橋さんが「ビートルズに初めて会った日本人」ではないかもしれませんが、「初めて握手した日本人」の可能性は高く、「初めて会った日本少年」であることは間違いないでしょう。そんな凄い人が持っていた『ビートルズ物語』です。家宝とさせていただきます(いつか17才当時の筆跡で、ジャケットにサインしてもらおうかな)。

帯付なら10万級ですが…
高橋さんが10枚限定で制作された東芝未CD化作品集「復刻ミコ」のCDジャケ



普段は温厚で、人間的にも非常に包容力のある高橋さん。しかしながら、10代の時にいち早く本物に触れたショックは大きく、「オール・マイ・ラビング」は千回も聴いたと言いきられます。そしてそれは、もうひとつ別の本物(ミコちゃん)への情熱を持続するパワーとなって、今も生き続けています。「『ヒット・キット・パレード Vol.1』の状態のいいものを探されているようですが、60年代のサイン入りのものしかなく、私も60年代サイン入りは1枚ぐらい持っておきたいので、盤だけなら交換してもいいですよ」という私の出したメールに高橋さんから返事が届いていました。
「第一集は百万回も聴き込んでぼろぼろです。こんなものと交換すれば騙されたと里葉さんが怒るに決まっているのでベストのものを早目に探してくれるという約束だけで結構です」(原文のまま)。10インチ盤は、朝から晩までかけ続けても、百万回聴くには100年かかるんですよ、高橋さん。そんな“あぶない”高橋さん原作の『時宗』が、93年の『炎立つ』に続いて来年のNHK大河ドラマに決定しました。
大丈夫か?NHK。

私のプレゼントしたサイン入り「VOL.2」を使った「復刻ミコ」の裏ジャケ。これのパラソルを閉じたジャケが存在するらしい(10万円でWANT!)。